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我らの南海ホークス

更新日:2023年11月21日

 私は、プロ野球パリーグの南海ホークスの大ファンだ。

 始まりは、父。大の南海ホークスファンの父に連れられて弟と3人で大阪ミナミの難波駅前にあった大阪球場に行った。そうしているうちに、自然とファンになったのだ。現在も、ソフトバンクホークスのファンであるが、ここでは愛を込めて南海ホークスと呼ぼう。


 「えっ?阪神ファンなのでは?」って、思われるかもしれない。しかし、阪神の本拠地は兵庫県、大阪と隣接する尼崎よりも更に離れた西宮だ。阪神は、大阪では断じてなーいのである。


 もちろん、当時からファンクラブにも入会している。入会すると、毎年、野球帽とバッグが貰える上に、いつでも大阪球場の内外野席で無料で観戦できるのだ。

 ある年に貰ったバッグが、Uber eatsのリュック似た形だった。私はランドセルを止め、ホークスリュックで学校に行くことにした。すると、何人かが真似をして、ホークスリュックで通学するようになった。もちろん、南海ホークスの野球帽を被って。


 平日に球場に行くと、観客席はガラガラだった。そんな時は、社員観戦券を持つ父と一緒に、ファンクラブ会員証を係の人に見せると、父と一緒に特別内野席まで入れてもらえた。そこは本当に特別な席で、プレーを間近で見ることができた。


 母は、大阪球場の歓声が聞こえるほどの距離に実家があるのだが、ホークスファンになることはなかった。祖父と同居している従兄弟らも、大の阪神ファンだった。ホークスファンの私からすると、最高の場所に家があるのに、なんとももったいない話だ。

 

 南海ホークスの2軍球場や若鷹寮の近くに住んでいたこともあった。選手をよく見かけたし、1軍選手にも、よくサインを頂いた。

 そのころ町内会には、なんと当時1軍レギュラーの外野手の河埜敬幸選手(巨人河埜和正の弟)がいた。町内会の運動会で見た、彼の圧倒的な足の速さに度肝を抜かれた。河野選手に、私と弟は至るところにサインを頂き、大喜びしたことを覚えている。 


 ただ悲しいかな、当時の南海ホークスは、とても弱く、万年Bクラスだし、選手の年棒が総じて低く貧乏球団と言われる始末。阪急ブレーブスや西武ライオンズ相手には、とうてい勝てる気がしなかった。

 それでも、不惑の大砲門田博光の場外大ファール、ドラキュラ山本和範のライトからの捕殺、ドカベン香川のホームランなど、強烈な印象がいまだに目に焼き付いて離れない。

 親子2代のホークスファン。南海ホークスには、他のチームにはない、応援したくなる魅力があるのだ。


 かつて、南海ホークスは、黒潮町は1軍キャンプ地であり、門田博光がそこでアキレス腱を切り、また、四万十市は2軍キャンプの地であった。中村に移住した私には、これも何かの運命だと感じている。


(写真は北海道エスコンフィールドにて)

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